ご当地駅メロディー資料館
JR豊後竹田駅

豊後竹田駅
(左)豊後竹田駅の駅舎は岡城を模している。駅裏の崖には滝が流れている
(右)瀧が住んでいた家が「滝廉太郎記念館」として公開されている。駅から徒歩約10分

瀧廉太郎作品
(JR豊肥本線豊後竹田駅 入線・発車)

 大分県竹田市のJR豊後竹田駅では列車の到着時に、作曲家・瀧廉太郎(1879-1903)の代表作「荒城の月」がホームで流れる。これは同市にある岡城址が曲の着想を得た場所といわれているためだ。瀧は地方官(現在の都道府県知事)だった父と共に各地を転々と移り住み、幼少期に現在の同市にも滞在していた。
 
 当駅における駅メロディーの歴史は非常に古い。1951年5月14日、当時の竹田町民から贈られたレコードを、改札係が拡声器を使って流したのが始まりである。当時の駅は蒸気機関車の車庫を併設した運行上の拠点で、停車時間が長かったことから、その間に音楽が聞きたいという乗客からのリクエストがあったのだという。一方の町でも、1947年に没後45周年を記念した「瀧廉太郎記念音楽祭」が初めて開かれ、歴史や文化を前面に出した街づくりに動いていたという背景もあった。

 このレコードは列車の発着のたび、一日に何回も流していたことからレコードや針がすぐに使えなくなってしまったそうだ。その都度、レコードは町役場から補充してもらっていたそうだが、放送開始から12年で80枚以上も使ったという。1960年頃には同じ瀧作曲の幼稚園唱歌「菊」も流していた。当時としては珍しいこの取り組みに、「『何時の列車で駅を通るからぜひ音楽をきかせてほしい』という申し込みまで届くようになった」(大分合同新聞より)という。

 そしてこの駅メロ、有名小説家の作品にも登場する。ノーベル賞作家・川端康成(1899-1972)の小説「波千鳥」で、登場人物の女性が竹田を訪れた際に書いた手紙の中で「(豊後)竹田の駅では、豊肥線の汽車が着いて出てゆくたびに、『荒城の月』の唱歌を聞かせます。」と綴っている。更には「竹田駅で『荒城の月』を聞いて、私はあのころ(主人公と恋をしたとき)のおののきを思い出した」とまで書いており、駅メロをきっかけに話題が展開していく。川端がこの作品の執筆のため竹田を訪れたのは1952年10月と53年6月で、実際にこのレコードを聴いたのであろう。

 本曲は瀧の没後に作曲家・山田耕筰(1886-1965)が編曲した経緯があり、現在は編曲版のほうが一般に広く知られている。駅でも昭和後期には編曲版の電子音が使われていたが、瀧ゆかりの地では原曲版がふさわしいという声を受け、市が録音に着手。カセットテープを駅に寄贈し、1988年7月19日から竹田市少年少女合唱団が歌う音源が使われれうようになった。現在流れているのは没後100年を契機として、2002年に新たに録音されたもの。従来よりもテンポがやや速くなり、原譜により忠実に歌われている。

 2024年3月28日からは、新たに発車メロディーに「花」を採用した。2013年から竹田ゆかりの曲「サンチャゴの鐘」が流れていたが、駅が開業100周年を迎えることや、4月から「福岡・大分デスティネーションキャンペーン」が始まるのを機に変更。市の公募により、地元団体「竹田混声合唱団」「コール竹田・メリーズ」と市民有志で編成した合唱団の歌声が使われている。瀧の楽曲としては約70年ぶりの新規採用となった。一方で従来からの「荒城の月」は、市民の意向を受けて今後も変更しないという。

(参考:1963年4月26日大分合同新聞、1988年7月21日同紙、2024年3月5日同紙、2014年4月15日朝日新聞「朝日マリオン ひとえきがたり」、藤澤志穂子「駅メロものがたり」(交通新聞社))

ホーム 使用別 曲名 備考 使用期間
すべて 発着
→入線
荒城の月[外部]
一部
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現在不使用
電子音
〜1988年
荒城の月[外部]
一部。「豊後竹田駅 到着」の音声
(リンク先は当サイトとは関係ありません)
現在不使用
竹田市少年少女合唱団(1988年録音)
1988年〜
2003年頃?
荒城の月[動] 竹田市少年少女合唱団(2002年録音)
2013年以降は発車メロディー使用のため
入線時から流れている
現在
現在不使用 1960年頃
発車  _花_[動] 公募の市民合唱団(2024年録音) 2024年3月28日〜
※2024年5月現在、19時〜翌6時40分頃までメロディーは流れない

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